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オウムを内部から撮ったドキュメンタリー。価値観変わりますよ。
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進化のトリガー
ウイルスは生物学的な意味では
生命というものを持たない。
タンパク質の殻に核酸などが入ってるだけ。

ウイルスは他の生物に入り込み
宿主からエネルギーなどを使って
自らを複製していく。

ウイルスは変異を繰り返す。
環境に対して自らを適応させる。


以上を踏まえて考えてみると
ウイルスは環境適応能力以上の飛躍的変化を
人間にもたらすトリガーになりうるのではないか。
かつて生物がミトコンドリアを
その細胞に取り込んだようにして。




というどうでもいいことを
朝シャワーを浴びながら考えていた。
僕が考える程度のことやから
きっと同じようなことを考えたり
あるいは研究したりしてる人がおるやろな。

ちなみにここでいう進化は進化論的な意味。
僕は進化論は嫌いなので
進化論的進化のことは環境適応と呼んでる。
通常、僕が進化という言葉を使うのは
イチローがますます凄くなったとか
個体進化的な意味合いで使います。
タイトルを「進化のトリガー」にしたのは
単純に響きがかっこよかったから(笑)。



最近は日記らしい日記ばかりだったので
たまに日記らしくない日記を書くと
なんだか気分がいいなぁ(笑)。
| いろんなことに対する自分の考え | 21:55 | comments(2) | trackbacks(0) |
こんな物語を書いてみた
4〜5年ぶりくらいに物語を書いてみた。
せっかく書いたので載せてみることにした。
長いしレイアウト的に読みにくいし
内容も大したことないので
気が向いたらって感じで読んでみてやってくださいな。

****************************************************

完全な暗闇



 目が覚めた時、僕は暗闇の中にいた。また今日もか、と声には出さずに呟く。ここのところ真夜中に目覚めて、そのまま眠れない日々が続いていた。今夜もそんな夜の一つだろうと思った。暗闇に同化するように瞼を閉じ、深く息を吸っては吐く。全身の力を抜いて暗闇に逆らわないように努める。僕は暗闇だ。
 しかし、いつまで経っても調和は訪れない。いつもなら5分もすれば身体と暗闇の境界が溶けて思念だけになれるのに、今日はいつものような変化が感じられない。身体は身体のままだし、暗闇は暗闇のままだ。それは水と油のようにはっきりとした境界線を引いて、決して混じり合おうとはしない。こんなことは初めてだったので、僕は少なからず動揺した。いつもより変化が緩やかなだけかもしれないと思いしばらく待ってみたが、何一つ変化がないので諦めた。こんなことは初めてだった。僕は好きな時に好きなように身体だから離れることが出来た。人は生まれながらに自分の身体という箱に閉じ込められ、その身体が許す範囲での生活を強いられる。大人になればなるほど、自分の身体からはみ出すような考え方が出来なくなるものだ。大人になると言うことは自らの能力の範囲内で物事をうまくコントロール出来るようになることだ。そして多くの場合はその能力は身体と密接な関係を持っている。僕はその身体から離れることが出来た。思念の世界は自由だ。僕はその世界でいろいろな物を創造してきた。人の役には立たないが迷惑もかけない。そういった自由が自分の中にあることを僕は誇らしく思っていた。今それが奪われようとしている。それだけはなんとしても避けなければならなかった。僕は瞼を開き暗闇そのものを見た。
 暗闇はいつも通りそこにあった。暗闇と言うのは不思議なものだ。それは光がないという状態であり、我々の目が光の反射を認識するように出来ている以上、理論的には何も見えていないはずなのに、暗闇というものは実際に目にすることが出来る。と同時に暗闇の中では本棚やテーブルや電気スタンドやあるいは自分の身体など、あるはずの物が見えなくなってその存在を隠蔽される。『ある』と『ない』とが暗闇の中では逆転する。僕はさらに暗闇を凝視する。勝手知ったるいつもの暗闇と目の前の暗闇との差異を探る。暗闇に目が慣れてくるとその差が少しずつ感じられてくる。目の前の暗闇はいつもより深く、いつもより質量を持っているようだ。手に取って掬えそうなほど濃密でどろりとしている。それはいつもの夜の暗闇とは本質的に違うものだ。もしかすると眠っている間に別の夜に紛れ込んでしまったのかもしれない。
 僕は諦めて体を起こす。体の動きから、重力のかかり方から、僕は体を起こしたはずだと思う。しかし完全な暗闇の中では、それさえも確証が得られない。僕は少しずつ不安になる。思念だけの世界には何かを判断するための基準がないのだ。人間の思念や感覚がどれだけ肉体に依存したものであるかを思い知る。身体感覚の伴わない思念など、暗闇の中に漂う塵のようなものだ。今の僕がそうであるように。
 それでもなんとかこの暗闇を脱するために、僕はどこかに向かって進もうとする。しかし、体を起こしたその瞬間に僕は途方に暮れることになった。どっちに進めばいいのかも分からない。完全な暗闇の中では、向きの概念など通用しない。このままここにいてはいけないと僕の思念が警報を鳴らす。このままでは闇に飲み込まれてしまう。すでに部屋の間取りをイメージすることさえ困難になってきている。すべてが漆黒に塗りつぶされようとしている。僕はありったけの勇気を振り絞って足を踏み出す。少しずつ暗闇に侵蝕され始めた思念をフル稼働して。
 一歩二歩とドアがあるはずの場所を目指して歩く。足の裏から伝わってくるフローリングの冷たさが、身体感覚を呼び戻してくれる。悪くない兆候だ。萎縮した思念の活動が身体感覚の帰還と共に再開される。このまま歩けばドアがあるはずだ。手を伸ばし、辺りを探るようにしながら歩を進める。手は伸ばされているはずだ、と何度も繰り返し呟く。自分が手を伸ばしていることさえ確信が持てない完全な暗闇に、足がすくみはじめる。このまま進んでもどこにもたどり着けないかもしれないという考えが頭をよぎった瞬間、それは暗闇と手を結んで一気に肥大化する。爆発的に。それでも僕は歩き続ける。足を止めた瞬間、暗闇は僕の思念を食い尽くすだろう。休む素振りも見せず、絶対に止まらないのだということを暗闇に見せつける必要がある。ゆっくりと、だが止まることなく僕は前に進み続ける。8歩目で僕の左手は何かに触れることになった。
 恐る恐る両手で探ってみる。おそらくそれは壁なのだろう。ざらざらとした感覚は壁紙の模様のようだが、それが本当に壁紙なのかが分からない。もし仮にそれが壁紙だったとしても、自分の部屋の壁紙であるのかどうかの確証がない。10年も住んでいながら壁紙の感触さえ知らないなんて、この部屋での10年はなんだったのだろうと思う。光のある世界にいながら、僕は何も見てはいなかったのかもしれない。そんなこと考えながら手探りで壁を調べる。少し右に移動したあたりで手に触れる質感がつるつるとしたものに変わる。焦らないよう呼吸を落ち着け、つるつるとした壁を探る。わずかな時間でそれを見つけることができる。ドアノブだ。安堵のため息が漏れる。これでこの完全な暗闇から逃れることができる。僕はドアノブを回し、そっとドアを開いた。
 次の瞬間、僕の思考は停止することになる。ドアの向こうにあったものは、さらなる完全な暗闇だった。絶望的な状況に思えた。しばらく呆然としたあと、少しずつ思考回路が再始動を始める。僕はあんなに親密だった暗闇を腹立たしく思う。何もこんな嫌がらせをしなくてもいいのに、と思う。僕は光を望んでいた。光がどんなものなのかはすでに思い出せなくなっていたけれど、その存在を渇望していた。完全な暗闇が目の前に立ちはだかるならそれを越えて行くまでだ。僕は心を決め、隣の部屋に足を踏み入れた。
 目には見えない境界線を越え、手探りのまま奥へと進んでいく。一歩進むのにかなりの時間がかかる。目覚めてからどれくらい時間が過ぎたのだろうか。完全な暗闇の中では僕の内側の時間はその指針をなくし、伸びたり縮んだりしているように感じる。外側の世界は時計の針が失われてしまった今、流れているはずの時間がその永久運動を止めてしまったかのようだ。時間の流れない世界と時間が伸び縮みする感覚の間に生じる摩擦が、少しずつ僕の中の何かを焼き切っていくのを感じる。このまま僕の存在自体が消耗してしまうのではないかという思いが僕を襲う。暗闇は実に多彩な拷問を僕に与えてくれるものだと感心しつつ、恐怖と諦めが入り混じったどうしようもない感覚をどうにかコントロールしようと努める。さっきまであった勇ましさはすでになくなってしまった。できることなら戻って布団に潜り込んで朝を待ちたいと思う。でも結局のところ後戻りはできない。植え付けられた恐怖が暗闇を養分にして増殖し、僕を食い破るのを黙って見ているわけにはいかない。記憶通りならここを真っ直ぐに抜ければ玄関があるはずだ。そうすればこの暗闇から抜け出せる。一歩一歩にありったけの勇気を詰め込んで前へと進む。
 ドアを越えてから17歩目で足に痛みが走る。何か固いものを蹴ったらしい。しゃがんで手探りで辺りを探る。何も見つからない。蹴った勢いでどこかに転がってしまったのかもしれない。あるいはそこにあるにも関わらず僕が認識することが出来ないのかもしれない。そこにあるはずのものが僕には見えない。見えるものだけがこの世界の全てを構築しているわけではないのだ。当たり前のことが完全な暗闇の中では実感に変わる。手だけでなく足にも神経を集中し、再び歩き始める。慎重に、慎重に。
 どれくらいの時間が過ぎたのかは分からない。時間の感覚はすでに擦り切れた。自分の体がそこにあることに確証も持てない暗闇の中だ。すでに僕の体は朽ち果てて、思念だけでここまでたどり着いたのかもしれない。それでもいい。とりあえず僕は玄関までたどり着いた。おそらくこれが玄関のはずだ。足元に脱ぎ散らかした靴の感触がある。元の世界に繋がる大切な感覚だ。靴にキスしたいくらい、僕は靴の感触を愛しく思った。この世界を抜けたらすべての靴を磨こう。きっとそういうどうでもいいようなことに、光のある世界の意味が隠されているに違いない。そんなことを思いながら手探りでドアノブを探す。しかし、ドアノブは見つからない。そんなはずはない、と思いながら背筋が凍るような感覚が走る。もう一度、今度はもっと丹念にドアノブを探す。やはりドアノブはどこにも見つからない。出口のない出口、そんなものに何の意味があるのだろう。僕に何を伝えようとしているのだろう。途方に暮れ僕は座り込む。目を閉じてドアの向こう側にある世界の気配を探る。集中していないと聞き漏らしてしまうような、とても小さくて優しい声が聞こえる。懐かしくて包み込まれるような声だ。それはとても聞き慣れた歌声なのに、僕にはそれが誰の声なのか分からない。記憶を辿る。いつも側にあった歌声のはずだ。そう、それは降り注ぐ朝日の声だ。眠れない夜に少しずつ闇を薄めていくあの光が奏でる歌声だ。僕にも朝が来るんだ。そう思った。
 目を開けるとドアの隙間から微かな光が差し込んでいた。部屋はもう完全な暗闇ではなかった。ほんのわずかな光でさえ、僕には眩しすぎた。薄目を開けて少しずつ目を慣らす。その時、頭上でカチリという音がした。ドアノブがそこにはあった。鍵が開いていた。僕はドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。
 世界は朝の青い光で満ちていた。全てが祝福に満ちているように思えた。自然と涙が溢れた。僕もその祝福された者たちの一員なのだ。涙はしばらく止まらなかった。

 完全な暗闇がどこから現れたのか。僕にはいまだに分からないままだ。しばらくの間は夜が来る度に怯えたが、以前と同じ完全ではない暗闇が訪れるだけだった。それは僕にとっては以前と変わらずに親密なままだ。しかし、僕の中にも変化はあった。完全な暗闇を知ったことで光の意味を知ることができた。以前はそれほど好きではなかった光のある世界も、今では僕にとってほんの少しだけ親密な存在になった。
 いずれ僕が年老いた時に、より完全な暗闇が僕を迎えにくるだろう。その時は否応なしにその世界に飲み込まれてしまうのだろう。そしてそれを僕は受け入れていくのだろう。その時まではこの世界が僕のいる場所だ。

さて、今日を始めようか。
| いろんなことに対する自分の考え | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
どうでもいいこと
分かり合えていると思った相手とさえ
自分の考えとは相容れないものを感じることはあるものだ。
そこには自分と相手との差異が存在するわけで
それを生み出す根源がどこから生まれるのかということを
ここ数ヶ月間ずっと考えている。

社会の全ての価値や認識は
顕在的であるにせよ潜在的であるにせよ
何かしらの前提条件の元に成立している。

お金には普遍的な価値があるわけではない。
その概念の価値を皆が認めるから存在できるものである。
その概念を前提として今の社会は成り立っている。
どこかにお金の概念のない地域が残っていれば
そこではまったく別の世界観が構築されているだろう。

キリスト教では神様が世界を創ったことになっている。
全ては神様が創ったと厳密に考える派閥では
進化論を否定するところもある。
それほどまでに神様は絶対的な存在。
非キリスト教の僕には信じられない感覚だけど
それは彼らと僕の前提条件が違うから。
彼らの理論を理解するためには
前提条件を理解しなければいけない。
「神様がいて全てを創った」ということを
1+1=2のように僕たちが当たり前のように信じていることと同じく
揺るがない前提条件として考えてみれば
その前提条件下では彼らの理論にそれほど歪みはない。


結果としてその前提条件の差異が
人との認識の差を生み出しているということだろう。
言語、世俗的風習、食文化、社会構造によって
国や民族などで潜在的に受け継がれている大きな差異もあれば
個々人の中に構築される前提条件の差異もあるだろう。
言語を厳密に定義していくことで
差異を小さく出来ることは出来るだろうが
言葉自体が指すものはイデア的なものであって
僕たちが生きているのは観念の世界ではなく
事象のひとつひとつに個性が存在する世界である以上
観念的な存在である言葉というツールでは
個別の事象について語りきることは不可能なのではないか。
そういう意味で宗教とは
個別の前提条件を抽象化し
言葉によって前提条件を統一する試みになるのではないか。
本当にその内容を信じられるもの同士であれば
導かれる結論は同一になるはずであり争いは生まれなくなる。
それが宗教の目指した理想なんじゃないかな。


個々人の価値観が尊重される社会に住む人や
共同体意識の低い都市部にすむ多くの人は
おそらく自分の価値観の中で生活していると思う。
僕もその中の一人だ。
僕は地域の共同体にも学校や会社など社会組織にも帰属していない。
潜在的な前提条件はたくさん抱えているだろうけど
誰かが提示する大きなものに帰属することも出来ない。
差異は埋まらない。
誰とも繋がれない感覚。
これがおそらく僕が今抱えている孤独感の源の一つなのだろう。
言葉ではなく体で誰かに触れていたいと感じるのも
言葉では埋まらない差異を埋めようとするからなのだろう。




今日はなんだかうまく眠れないので
ずっと考えてたことを元になんとなく文字にしてみた。
こんなことを考えてたのか(笑)。
| いろんなことに対する自分の考え | 03:12 | comments(8) | trackbacks(0) |
今年も悩み続ける
中学生〜20歳前後が僕の創作意欲のピークだった。
クオリティは別としても次から次に表現したいものが生まれた。
最近はペースも遅いし数も少ない。
昨年末からそのことを考えていた。
いくつかの要因が浮かび上がる。

例えば他人の作品に触れすぎたこと。
それが素晴らしければ素晴らしいほど
それを越えるのが困難に思われて八方塞がりになる。
例えばスキルが足りないこと。
既存のスキルで発想出来るものがパターン化してしまい
マンネリになってしまっている。

しかし何よりも感じているのは
自分をコントロール出来るようになってしまったこと。
昔は自分で自分をコントロールできず
その衝動を言葉や行動に転化していた。
稚拙でも表現せずにはいられなかった。
今でも内面は変わっていないけど
手綱を取ってコントロール出来るようになった。
感情を暴走させてバイトを休んだりしたらお金が入らなくなる。
自分で稼いで生きていくにはそうせざるを得なかった。
一度コントロール出来てさまうと
今度はコントロール出来ない状態に戻れなくなった。
それはとても怖いことのように思えたし
剥き出しの自分をさらけ出すことが恥ずかしく思えて
必死で手綱を握りしめた。
結果、退屈な人間になった。

今年はもう一歩踏み込まなくてはならない。
意識的に手綱を離せるようにならなければいけない。
自分のドラムに
自分の写真に
自分の言葉に
パーソナルなものを刻み付けよう。
それが幼稚な技術や感情や表現だとしても
それがありのままの自分だと受け入れよう。

新年だからといって悩みがなくなるわけではない。
だけど今年はその悩みを行動に結び付けよう。
街中で叫び出しそうになりながら耐える日々。
それ自体を形にすることだって出来るはずだ。
| いろんなことに対する自分の考え | 09:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
生きるために心掛けている僅かなこと
それなりに人生を生きてきて
あと何年かすれば若いとは言われない年齢にもなり
悩んで学んで考えて悩んで
ようやく自分なりの生き方が身についてきたと思う。
僕の中で一番大きな気付きは他人をなるべく否定しないこと。
もちろん明らかに間違ってることは注意するし
僕はこう考えるけどということは伝えるけど
全く違う思想や価値観の存在を受け入れられるようになった。
僕にとって価値がないことや
僕が信じていないことだって
誰かにとって価値があるなら認めてあげたい。
意味がないことだって面白がって感じていたい。
そこにあるものをそこにあるままに感じてたい。
それが今の僕の生き方だと思っている。
それらは写真を撮るという行為が僕に教えてくれたもの。
音楽が繋いでくれた生命の上に積み上げられた
『生きる』という言葉の僕なりの意味。
| いろんなことに対する自分の考え | 20:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
帰り道
久々に半袖で出歩いて気持ちのいい一日だったな。
夜の空気が少し冷たいのもいい。
子供は衣服を纏うことを嫌がるという話を
どこかで聞いたことがある。
感覚的に気持ち悪いらしい。
そりゃそうだよね。
何も纏わずに生まれてきてるんだから
何も着ないのが一番自然に違いない。
いつの間にか衣服を纏うことに慣れた僕らは
きっと心にも何かを纏うようになって
外界と隔たりを持って生きるようになるんだろう。
夏のうだるような暑さは嫌いだけど
薄着になれるこれくらいの暖かさは好きだと思った。
| いろんなことに対する自分の考え | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
父親の誕生日
今日は父親の誕生日だったので
おめでとうメールを送ってみた。
返信に失敗したらしく空メールが送られてきた。
30分後に再び届いたメールには

『元気な53で行きたいと思いますのでどうかヨロシク。』

と書かれていた。
機械音痴でビデオの録画もうまくできない父親。
この短い文章を打つのに
30分かかったんやろなぁと思うと
なんだかよくわからんけど泣けてきた。
実は両親の年令を知らなかったんだけど
父親が53才ってことは
僕は僕が生まれた時の父親の年令なんだな。
3才上の姉がいるから
きっと立派にお父さんやってたんやろな。
今の僕はその頃の父親には到底及ばない。
ずいぶんと親不孝をしてきたし
いい年して髪をピンクにするような息子だから
これからも親不孝者に違いない。
少しでも親のために何かしてあげられるようになりたいな。
もっとずっと先の話だけど。
| いろんなことに対する自分の考え | 21:21 | comments(6) | trackbacks(0) |
胎内記憶
一昨日くらいかな。
テレビで胎内記憶についてやっていた。
お母さんのお腹の中にいた頃の記憶って
5〜6才くらいになると忘れちゃうみたいなんだけど
2〜3才くらいの子に質問すると

(おへそを指して)ここから食べてた

遊んでた

すぐですよーって言う女の人の声を聞きながら出てきた

などと答えていました。
実に2〜3才くらいの子75%の子供が
なんらかの記憶を持っているとのことでした。
涙が止まりませんでした。
| いろんなことに対する自分の考え | 21:19 | comments(2) | trackbacks(0) |
【自分をたとえるならバトン】
友達のみきみき姉さんから回ってきました。
書いてみませう。


■自分を色にたとえるなら
赤かな?
赤井だけに・・・(笑)。
いやいや、実際のところ
毎日必ずどこかに赤いものを
身につけてる気がします。

■自分を動物にたとえると?
犬だな。
ビーグルとか似てないかなぁ?
違う?

■自分を好きなキャラにたとえると?
スライムとかかな。
いつも笑ってるし。

■自分を食物にたとえると?
もちっぽいかな。
色白いしもち肌だし。

■次に回す5人を色でたとえると?
このブログを見てるのが誰だかわからんので
持っていきたい人はコメントください。
色に例えます。
| いろんなことに対する自分の考え | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
中古楽器が買えなくなるらしい
どうやらマジみたいですな・・・。
楽器だけじゃなく電気モノはリサイクル不可になりそうです。
最近作られているいろんな法律関係もそうだけど
日本は明らかに法整備の名のもとに
国民の自由を削る方に走ってるね。
株とかそゆところは自由にしまくって
ホリエモンみたいなのを生み出したりして
一般庶民の生活圏では多くの制限を設けて
この国はどこに行こうとしてるんやろねぇ。

日本を捨てたくなってきたな・・・。


以下、引用。
************************************************
おまいらの聴き親しんだ、楽器、エフェクター、アンプ、オーディオが日本国内で売買不可になるお知らせだ!
フェンダーやマーシャル、メサブギー、ハイワット、ダンブルのアンプ
ローズ、ウーリーツァーなどのエレピ
ミニムーグ、プロフェット5、アープオデッセイなどのシンセ
UREIやNEVEなどのアウトボード、コンソール
ハモンドオルガン、テルミン、オンドマルトノ、その他すべてのヴィンテージ電子、電気楽器

例えばストロベリーフィールズフォーエヴァーのメロトロン
マーヴィンゲイのウーリーツァー
EL&Pのハモンドやミニムーグ
チックコリアのローズ
ジミヘンのマーシャル
レディオヘッドのツインリヴァーブ VOX AC-30
その他コンパクトエフェクター類


             全  て  死  亡



直接電源の無いエレキ楽器類は平気っぽいが。
上記のものはネット販売、オークション、さらには個人間の売買すら禁止!!


2001年4月に施行された電気用品安全法によって、過去に発売された電気機器の販売がいっさいできなくなります。現在は猶予期間中につき販売は可能ですが、猶予期間は2006年3月31日で終わります。つまり、今年の4月1日からは、古いゲーム機や、ビンテージアンプ、シンセサイザー、オーディオ機器、レーザーディスクプレーヤー等の売買ができなくなるのです。

この法律によって、

楽器を弾く人やDTMをする人は、各種アンプ、シンセサイザー、電気オルガン、DTM機材などが
音楽を聴くことが好きな人は、レコードプレイヤーやCDプレーヤー、アンプ、コンポなどが
アニメや映画などAV鑑賞が趣味の人は、レーザーディスクプレーヤーやベータ規格のビデオデッキなどが
ちょっと昔のゲームが好きな人はプレステやドリキャスなどが


今年の4月から二度と手に入らなくなるのです。


ひとごとではありません。この法律によって影響を受けるのはあなたです。
これらの文化的損失を許さないためにも、少しでもこの法律のことを知って広めてください。
今ならまだなんとかできるかもしれません。法律が本格的に施行されてからでは遅いのです。


石橋楽器買取販売終了のお知らせ
http://www.ishibashi.co.jp/nagoya-sakae/used/used.htm
電気用品安全法(法令データ提供システム)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO234.html
電気用品安全法のページ(経済産業省)
http://www.meti.go.jp/policy/consumer/seian/denan/
電気用品安全法の概要(経済産業省)
http://www.meti.go.jp/policy/consumer/seian/denan/outline/hou_outline.htm
電気用品安全法
http://homepage3.nifty.com/tsato/terms/denan.html
************************************************
| いろんなことに対する自分の考え | 09:52 | comments(1) | trackbacks(7) |
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